先日、映画『白鳥とコウモリ』を映画館で観てきました。
原作は東野圭吾さんの同名小説。映画は2026年9月4日に公開され、松村北斗さんと今田美桜さんがW主演を務めています。
東野圭吾さんは、今年7月に68歳で亡くなられました。これまで数多くの作品を世に送り出し、ミステリーというジャンルをあまり意識しない人でも、一度はその作品名を耳にしたことがあるのではないでしょうか。
私自身もこれまで、東野圭吾さんの作品には何度も触れてきました。
今回の『白鳥とコウモリ』も殺人事件を軸にしたミステリーなのですが、単純に「犯人は誰なのか」を追いかける作品とは少し違います。
事件によって人生を大きく変えられてしまった人たち。
被害者の家族。
そして、加害者とされた人物の家族。
それぞれの立場から事件を見つめていくことで、「罪とは何なのか」「真実を知ることは、本当に人を救うのか」といったことまで考えさせられる作品でした。
映画を観終えたあとも気持ちは簡単には切り替わらず、映画館からの帰りの車の中では、かみさんと自然に映画の感想を話しながら帰ることになりました。
そんな余韻まで含めて、今回は映画『白鳥とコウモリ』を観た感想を書いてみたいと思います。
自供によって解決したはずの殺人事件
物語は、善良な弁護士・白石健介が殺害されるところから動き始めます。
捜査が進む中で容疑者として浮上したのが、倉木達郎という男性。
そして倉木は、自ら犯行を認めます。
犯人が自供したのであれば、普通に考えれば事件はそこで解決です。
「誰が殺したのか」というミステリーの最大の謎は、早い段階で答えが出たように見えます。
ところが、この映画ではそこからが本当の物語の始まりでした。
自供によって「殺人犯の息子」となった倉木和真。
一方、父親を殺され「被害者の娘」となった白石美令。
本来であれば、この二人は最も距離を置くべき関係なのかもしれません。
片方は加害者の家族。
もう片方は被害者の家族。
ところが二人は、それぞれ自分の父親について考えていくうちに、自供された事件の内容に違和感を抱き始めます。
「本当にそうなのだろうか」
そんな小さな疑問から、二人はそれぞれの立場を越えて事件の真相を追い始めます。
この設定がとても印象的でした。
普通のミステリーであれば、刑事や探偵が真実を追うことが多いと思います。
しかし、この作品で真相を追う中心となる二人は、事件によって人生そのものを揺さぶられた家族です。
だからこそ、真実に近づけば近づくほど単純に喜べるわけではありません。
知りたい。
でも、知るのが怖い。
そんな複雑な気持ちが物語全体に流れているように感じました。
「加害者家族」と「被害者家族」
今回の映画で特に考えさせられたのが、「家族」という存在です。
事件を起こしたのは本人です。
しかし、その瞬間から家族まで「加害者家族」という立場に置かれてしまいます。
もちろん、被害者家族が背負う悲しみは計り知れません。
大切な人が突然殺される。
なぜ殺されなければならなかったのか。
犯人を許すことなどできないでしょうし、その後の人生にも大きな影響を与えることになります。
一方で、加害者の家族にも、それまでの日常があります。
昨日まで普通に父親だった人が、ある日突然「殺人犯」になる。
その事実をどう受け止めればいいのか。
自分自身が罪を犯したわけではないのに、家族であるというだけで、それまでとはまったく違う人生を歩くことになってしまう。
倉木和真の立場を考えると、何とも言えない気持ちになりました。
そして白石美令には、父親を殺された娘としての苦悩があります。
どちらがつらいのか。
どちらがかわいそうなのか。
そんな単純な比較ができる話ではありません。
それぞれが、それぞれの立場で苦しんでいます。
映画を観ながら一人ひとりの心情を思い計っていると、何ともやるせない感覚になりました。
過去の事件から始まった因縁
『白鳥とコウモリ』では、現在起きた殺人事件だけで物語が完結しません。
事件を追っていくうちに、さらに過去へと話がつながっていきます。
現在起きている出来事だけを見れば理解できなかったことが、過去をたどることで少しずつ形を持ち始めます。
人が過去に行ったこと。
そのときに選んだこと。
誰かのためを思って取った行動。
隠してきたこと。
それらが時間を経て、別の人の人生にまで影響していきます。
過去の出来事は終わったように見えても、本当には終わっていない。
長い年月を経て、関係する家族を巻き込みながら現在へとつながっている。
そんな因縁が、この作品の重さにつながっているように感じました。
「あのとき別の選択をしていたら」
そう考えてしまう場面もあります。
しかし、そのときの本人にとっては、それが最善の選択だったのかもしれません。
未来が分かっていれば、人は間違えないのかもしれません。
けれど、現実には未来は分かりません。
限られた状況の中で何かを決め、その結果を背負いながら生きていくしかありません。
その選択が何年、何十年という時間を経て、思いもしなかった形で別の人に影響を与える。
このあたりはミステリーとしての面白さ以上に、人間ドラマとして印象に残りました。
真実を知ることは幸せなのだろうか
映画を観ながら何度も考えたのが、
「真実を知ることは、本当に幸せなのだろうか」
ということでした。
和真と美令は、それぞれ父親について感じた疑問を確かめるために事件を追っていきます。
当然、観ている側も真相が知りたくなります。
「本当は何があったのだろう」
「なぜ、この事件が起きたのだろう」
ミステリー作品なので、真実に近づいていく過程には引き込まれます。
ただ、真実が分かればすべてが解決して、みんなが幸せになれるという話ではありません。
むしろ、知らなければ背負わなくて済んだ事実まで知ることになります。
自分が信じていた父親の姿。
家族から聞いていた話。
これまで自分の中で作り上げてきた過去。
そうしたものが、真実を知ることで違う姿に変わってしまうこともあります。
それでも真実を知りたいのか。
それとも知らないまま生きた方が幸せなのか。
簡単には答えが出ません。
ただ、知らないことで保たれている日常がある一方、隠された事実が誰かを苦しめ続けることもあります。
そう考えると、「真実」というものは必ずしも優しいものではないのだと思います。
誰か一人を責めれば終わる話ではない
事件を扱った作品を観ていると、どうしても「誰が悪いのか」という視点で観てしまいます。
犯人がいて、被害者がいる。
犯人が分かれば事件は解決する。
しかし、『白鳥とコウモリ』は、それだけでは終わりません。
一つの出来事には、さまざまな人の思いが絡み合っています。
もちろん、犯罪そのものが正当化されるわけではありません。
罪を犯せば、その責任を負わなければならない。
それは当然のことです。
しかし、その周囲には家族がいて、友人がいて、それぞれの人生があります。
一つの罪によって、直接関係のない人まで長く苦しむことになる。
しかも、その苦しみは事件が解決したからといって消えるわけではありません。
むしろ裁判が終わり、世間から事件が忘れられたあとも、家族の人生は続いていきます。
「事件解決」という言葉の向こう側にあるもの。
この映画は、そこを描こうとしているように感じました。
東野圭吾さんらしい「人」を描くミステリー
東野圭吾さんの作品というと、緻密なトリックや予想できない展開を思い浮かべる人も多いと思います。
もちろん『白鳥とコウモリ』にも、真相を追っていくミステリーとしての面白さがあります。
しかし、今回私が特に印象に残ったのは「人」でした。
なぜ、その人はその行動を取ったのか。
なぜ、本当のことを話さなかったのか。
なぜ、長い間その思いを抱えてきたのか。
一つひとつの行動の裏側に、人間らしい感情があります。
正しいか、間違っているか。
善人か、悪人か。
そんな二つの答えだけでは割り切れないものがあります。
タイトルの『白鳥とコウモリ』という言葉も、映画を観終わったあとでは、観る前とは少し違った印象に感じられました。
人間は単純に「白」と「黒」に分けられるものではない。
置かれた立場によって見える景色も違います。
誰かにとっての正義が、別の誰かにとっては苦しみになることもある。
その複雑さが、この作品には詰まっていたように思います。
東野圭吾さんが亡くなられたことを思いながら
今回の映画を観るうえで、もう一つ感じるものがありました。
原作者の東野圭吾さんが2026年7月に亡くなられたことです。
映画が公開されたのは9月。
そのため、この作品を観ながら「もう東野圭吾さんの新しい物語を読むことはできないのだな」と考える瞬間がありました。
1985年の『放課後』で作家デビューして以降、『秘密』『容疑者Xの献身』『ナミヤ雑貨店の奇蹟』など、本当に多くの作品を残されています。
ミステリーでありながら、その中心にあるのは人間の感情。
『白鳥とコウモリ』を観ても、改めてそのことを感じました。
原作を読んでから映画を観る人。
映画をきっかけに原作を手に取る人。
これから初めて東野圭吾さんの作品に触れる人。
作者が亡くなられても、作品は残り続けます。
映画化されることで、さらに新しい世代にも物語が受け継がれていくのでしょう。
そう考えると、作品というものの力を改めて感じます。
帰りの車の中で、かみさんと感想を話す
映画を観終えて映画館を出ても、今回はすぐに気持ちを切り替えることができませんでした。
映画館からの帰り道。
車の中で、かみさんと自然に映画の話になりました。
「あの人は、どんな気持ちだったんだろう」
「あのとき別の選択をしていたら、どうなっていたんだろう」
そんなことを話しながら帰りました。
映画の楽しみ方はいろいろあります。
迫力ある映像を楽しむ映画もあれば、思い切り笑って映画館を出られる作品もあります。
観終わった瞬間に「面白かった」と言える映画もあります。
一方で今回の『白鳥とコウモリ』は、映画館を出てからも考え続けるタイプの作品でした。
誰の立場から事件を見るかによって、感じ方も変わります。
被害者の家族。
加害者の家族。
過去の事件に関わった人たち。
それぞれの立場になって考えてみると、簡単な答えを出すことができません。
だからこそ、帰りの車の中で感想を話したくなったのでしょう。
一人で観ていたら、自分の中だけで考えて終わっていたかもしれません。
今回はかみさんと一緒だったことで、
「自分はこう感じた」
「私はこう思った」
と話す時間まで含めて映画を楽しむことができました。
こういう映画の時間もいいものです。
まとめ|事件の真相以上に「その後」を考えさせられた映画
映画『白鳥とコウモリ』。
殺人事件から始まる物語ですが、観終わって強く残ったのは、「犯人は誰だったのか」ということだけではありませんでした。
一つの事件によって人生を変えられてしまった人たち。
被害者家族となった人。
加害者家族となった人。
そして、過去の出来事を長い間背負ってきた人。
それぞれの立場に立って心情を思い計ると、やるせない気持ちになります。
誰か一人だけを責めれば、すべてがきれいに解決するわけでもありません。
過去に起きたことは変えられない。
それでも人は、その過去を背負いながらこれからを生きていかなければならない。
そんな当たり前でありながら重いことを、改めて考えさせられました。
そして「真実を知ること」が必ずしも救いになるとは限らないということも、この作品から感じたことの一つです。
それでも真実を求める。
なぜなのだろうと考えると、そこには人が前へ進むために必要な何かがあるのかもしれません。
映画館からの帰りの車中、かみさんと感想を話しながら帰った時間も含めて、今回は印象に残る映画鑑賞となりました。
東野圭吾さんが残された『白鳥とコウモリ』。
ミステリーとして事件の真相を追う面白さがありながら、その奥には家族、罪、責任、そして人が背負って生きていくものについて考えさせられる物語がありました。
観終わってすっきりする作品ではありません。
むしろ、少し重いものが心に残ります。
けれど、その余韻こそがこの映画の魅力なのだと思います。
しばらく時間が経ってから、もう一度この物語について考えてみたくなる。
そんな作品でした。


コメント